私は、どこにでもいる普通のサラリーマンで、身体のことなど、さっぱりわかりませんでした。
そんな私が、なぜセラピストになったのか?
それは、自分自身の人生を振り返ることで、こうなる運命だったとわかったのです。
本日は私がセラピストになるきっかけをお話しします。
私は、石川県金沢市で生まれました。
一人っ子で、いたずら好きなわんぱく少年でした。
小学校入学時に、名古屋に引っ越しをしてきました。
野球が大好きで、友達と公園で暗くなるまでボールを追いかけていたのを覚えています。
小学4年生になると、野球部に入部できるようになります。
一緒に遊んでいた友達は、みんな野球部に入部したのですが、私は入部しませんでした。
理由は、私が患っている病気にありました。
私は、生まれた時から、鼻炎があり、鼻水が年中止まりませんでした。
その量も、すさまじく、1時間の授業の間に鼻を噛まないと鼻が詰まって息苦しくなるくらいです。
毎時間、鼻をかむ私をみて、クラスメートは、私をからかうようになりました。
からかわれることで私は傷つき明るかった性格も次第に内向的になっていきました。
野球は大好きだけど、また鼻をかんでみんなに笑われたくない…
そんな気持ちで、野球をすることを諦めたのです。
突然襲ってきた膝の痛み
高校生になると、鼻炎が少しおさまってきました。
高校から野球をやっても、みんなと同じレベルまで、頑張れる気がしなかったのでテニス部に入部しました。
テニス部では、鼻炎でからかわれることもなく、楽しく毎日を過ごしていました。
その当時、テニス部に入部する生徒は、テニス経験がない人たちばかりでした。
私は、中学校で卓球部だったからか、少し飲み込みが早く、2年生でレギュラーになっていました。
レギュラーになると、当然、自覚も出てくるし、同時にレギュラーの座を奪われたくないというプライドも持つようになりました。
そんなある日、朝練をしていたら、膝に痛みが走りました。
なんだろうと膝を触ってみると、両膝とも、ぽっこりと膨れていました。
「まあそのうち治るだろう」と軽い気持ちでテニスを続けていましたが、どんどん痛みが強くなり、そのうち階段や自転車など日常生活でも痛みを感じるようになってきました。
先生に話しても、「そんなもん、湿布でも貼っておけ!」の一言でした。
湿布を貼ると、ひんやりと気持ちよいのですが肝心の痛みが全く良くなりません。
仕方なく病院に行って、レントゲンを撮ってもらったところ、オスグッドという診断を受けました。
医師からは「成長痛だから大人になれば治るよ」と言われました。
「えー!大人なるまで治らないの!」
なんだかショックでした。
それから、テニス部でも満足に練習ができなくなりました。
次第に試合をしても勝てなくなってきました。
(膝が痛くなければ勝てていたはず・・・)
と言い訳をしながら自分をごまかしていましたが、チームメイトが自分よりうまくなるのを横目で見ていてレギュラーのプライドはズタズタに切り裂かれたのです。
結局、3年生の最後の大会では、レギュラーから外され悔しい思いをしました。
運命の出会い「冷え取り」
大学を経て、社会人になり、ご縁があって25歳の時に結婚をしました。
お互いに子どもが好きだったこともあり、待ち望んでいたのですが、なかなか、子宝に恵まれませんでした。
病院に行って検査を受けてみると、なんと妻が不妊症だったのです。
妻は病院にいって、薬を飲んだり、注射を打ったり、懸命に不妊治療に励んでいました。
女性として、子供が産めない辛さや、お互いの両親に「孫を見せてあげなきゃ」というプレッシャーを一身に背負って、頑張っている妻を見て、何も出来ない自分に苛立ちを覚えました。
なかなか成果の出ない状況が長く続き、病院での治療に疑問を持ち始めていたある日、ブックオフの100円コーナーで「冷え取り健康法」という本を見つけました。
今でも、なぜこの本を手にとったのかわからないです。
こんな状況でなければ、怪しい本だなとすぐに戻していたかもしれません。
しかし、私たちは病院での治療を諦めて、この冷え取り健康法にかけてみたのです。
冷え取り健康法とは、半身浴と靴下の重ね履き、とにかく下半身を温めるというものでした。
なので、毎日、妻と一緒にお風呂に2時間浸かり、靴下を10枚重ね履きしました。
不妊症の治療のために始めた冷え取り健康法ですが、そのうち、思わぬ変化が現れました。
実は妻は、不妊症の他にアトピー性皮膚炎で子供の頃から大量のステロイドを使っていました。
始めた当初は、2時間経つと、お風呂の水は真っ白に濁っていました。
多分、体に溜まっていたステロイドが排出されたのだと思います。
そして、冷え取り健康法を始めてまもなく、妻の肌はぼろぼろになりました。
皮膚が真っ赤に腫れあがり、顔がバリバリになり、笑うことも出来ないくらい、しんどそうでした。
今までの私たちなら、すぐにこんな治療を止めて病院に駆け込んだことでしょう。
ステロイドを塗れば、きれいな肌に戻ったのかもしれません。
しかし、不妊症の際の病院の治療に疑問を持っていたことに加え、薬に頼らない、人間が本来持っている自然治癒力に引き出すという方法に私たちは懸けました。
それから3年の月日が流れ、妻の肌は見違えるようになりました。
ステロイドを使わなくても、ツヤのある肌になり、体調も良くなっていきました。
その頃、基礎体温が35度台から36度台へと上がっていました。
そして、待望の子供を授かることが出来たのです!
そんな経験から、私たちの中では、「病気を治すのは病院だけではなく他にも方法がある」という現実を知り、世界が広がったような気がします。
その後も、冷え取り健康法を続け、無事に女の子を出産しました。
待望の子供にも病気が・・・
夜泣きをしたり、おっぱいを飲まなかったり、人並みの苦労はしましたが待望の赤ちゃんを授かり、毎日が充実していました。
しかし、子供が1歳半になる頃、妻があることに気がつきました。
歩き方がおかしい・・・。
公園デビューをして、他の子達と見比べても、我が家の娘だけ異常なほどのガニ股だったのです。
私たちは、病院に娘を連れて行きましたが、町の病院では、対応できないということで紹介状を渡され、大学病院に行きました。
そこで、血液検査やMRI、CTなど様々な検査をしました。
小さな身体で泣きわめきながら検査を受ける我が子を見て、胸の張り裂ける思いがしました。
検査の結果、娘の病名は「くる病」しかも、難病に指定されているタイプのものでした。
治療は、ビタミンCの大量投与。
しかし、完治はぜず、その副作用で腎臓に結石が出来、将来、子供の産めない身体になると言われました。
なんで、我が家の娘にこんな不幸が起こるのだろう…
私たちは、毎晩泣きました。
がに股の子供のためにロボットみたいな装具を作りました。
嫌がる子供に、「かっこいいよ」となだめながら、裏では泣いていました。
そして、毎晩、妻と話し合った結果、もう一度、冷え取り健康法にかけてみようと思ったのです。
それから、子どもと一緒に毎日、お風呂に2時間浸かりました。
嫌がる子供を毎日、お風呂に入れるのは至難の業でした。
靴下も嫌がり、すぐに脱いでしまうので、寝ている時にこっそり履かせていました。
それでも、子供の自然治癒力は、素晴らしいです。
半年も続けていると、薬も装具も使っていないのに、がに股がみるみるうちに治っていったのです。
このような経験から、冷え取り健康法が私たち夫婦のバイブルとなり、お風呂が私たちの病院となりました。
頸椎ヘルニアで目の前が真っ暗に・・・
そして今度は、私自身にも問題が発生しました。
当時、流行っていた総合格闘技を習いに行った私は、首絞めの技を受けて、首を痛めてしまったのです。
グキッ!!!
と音がしたので、びっくりしましたが、痛み自体は1ヶ月ほどで治まりました。
しかし、痛みがなくなると同時に、右手が痺れるようになってきたのです。
しびれは日増しに強くなり、車のハンドルも握れなくなってしまいました。
自分はどうなってしまうのだろうか?
あの時の不安は忘れることは出来ません。
整形外科に行き、検査を受けました。
(どうか、軽い症状であってくれ!)と願いながら聞いた病名は「頸椎ヘルニア」
医師からは「この症状とは一生付き合っていくしかないよ。手術という方法もあるが、やっても治らない可能性もあるし、失敗したら、首から下が動かなくなってしまうこともあるからね」と冷たく言われました。
まだ34歳、子供も小さく、これからバリバリ働かなくてはならない時に、こんな状態になってしまい、目の前が真っ暗になりました。
冷え取り健康法も続けていましたが、この症状については、あまり変化が見られませんでした。
わらをもすがる気持ちで・・・
そんな時、妻の友人からFMT整体を紹介されました。
今までの経験で病院に対して不信感を持っていた私は整体院に対しても同じような印象を持っていました。
2か月ほど様子を見ていましたが、症状は一向に良くなりません。
しかし、他に希望を見いだせる治療もなく、切羽詰まった私は、わらをもすがる思いでFMT整体をパソコンで調べてみたのです。
わかったことは、お坊さんがやっている整体院。
怪しい…
宗教の勧誘でもされるのだろうか?
高額な壺や仏像でも売りつけられるのではないだろうか?
そんなことを思ったので、行くのをやめようと思っていた矢先、あることをきっかけに気持ちが180度変わりました。
それは、整体院の院長の名前が「高瀬」だったのです!
私と同じ名字でした。
ゾワゾワ~と鳥肌がたちました。
これは、なにかのご縁があるに違いない!
そう思うようになりました。
「どのみち一生治らないと言われた症状、ここにかけてみよう!」と思い予約を取りました。
電話をすると、2週間予約で一杯ということでした。
「え!すぐに予約取れないの!」
今まで様子を見ていたくせに、行くと決意してからの2週間は、とても待ち遠しく感じました。
ようやく待ちわびた予約の日、行ってみると場所がわかりません。
電話をして確認すると、もう整体院を通り過ぎていました。
その建物は黒い平屋建てで看板も出てなかったのです。
周りにはお墓やお寺があって不安が募ってきました。
恐る恐る中に入って行くと、受付の女性がにこやかに迎えてくれました。
そしてカルテを書き、渡されたファイルを読みました。
ファイルには院長先生のプロフィールや施術の方法などが書いてありました。
中でも、学生のみなさんへというページに、最低限の礼儀が守れない人は施術をお断りしています。と書いてありました。
「うわー、やっぱ怖いところだ、どうしよう・・・」
どんどん不安が募っていきます。
ファイルを全て読み終わると、私の名前が呼ばれました。
ドキドキしながら施術室に入って行くと、院長先生がにこやかに迎えてくれました。
私の話を親身にしっかりと聞いてくれ、どんどん不安がなくなると同時に、病院では感じられなかった温かさを感じることができました。
そして、いざ施術が始まりました。
私は、整体を受けることが人生で初めてでした。
テレビなどのイメージでボキボキ!というのをイメージしていたので緊張していましたが、押したりもんだりせずに、フワフワと触れるだけ…
はっきり言って、何をされているのかさっぱりわかりませんでした。
それでも、これにかけていたので、施術を受けに何度か通いました。
しかし、結果が出ないどころか、少しの変化もありません。
私は心が折れそうになり、高瀬元勝先生にメールをおくりました。
「先生を信じて、施術を何度受けても、全く変化がありませんので、もう通うのをやめにします。」
そうしたら、高瀬元勝先生からメールの返信が届きました。
「あなたの症状は、まだ結果が出ていませんが必ず改善します。こちらに通わなくてもいいので、治すことをあきらめないでください。」
このメールを読んだ時、(ああ!この人は、私のことを本気で考えてくれているんだ!)と思いました。
そこで、もう一度、FMT整体を信じて、通ってみようと心に決めました。
それから、たった2回の施術で、右手のしびれは、ウソのように消えてなくなりました。
この時の衝撃や、安堵の気持ちは今も忘れられません。
そして私も、この力を身につけて困っている人たちを助けてあげたいと思うようになったのです。
こんな僕でも、人の役に立てるかもしれない。
その半年後、FMT整体よりお便りが届きました。
「FMTセラピスト養成学院」のお知らせでした。
私は迷わずに応募しました。
試験に運良く合格し、仕事をしながら勉強するというハードな期間を送りました。
解剖学や生理学、心理学など私の知らないことばかりで頭がパンクしそうになりましたが、なんとか卒業することができ、今後の進路について高瀬元勝先生と面談をする機会がありました。
私は、この技術で人々を癒せる人間になりたいという目標を叶えるために、「一番経験の積める場所で修行したい」と伝えました。
それなら、ということで、首都圏へ初出店するという大役を任せていただきました。
当時2人目の子供が生まれて、半年しかたっておらず、妻の体調も優れなかったため、単身赴任で挑戦しました。
東京、何件か物件を見て回りましたが、なかなかピンとくる物件が見当たらず、最終的に横浜でOPENすることになりました。
整体の技術以外にも、備品の購入、看板の設置、室内のレイアウト、ご近所へのあいさつ回りなど、開業する際に必要なすべての業務を一人で経験させていただきました。
そして、ひたすら患者さんと向き合う生活が始まりました。
FMT整体は愛知県小牧本院しかなかった当時から、関東や関西はもとより、北海道や沖縄からも患者さんが集まる繁盛院でした。
なので、首都圏での開業を望む声が多く、待望の出店だったため、開業と同時に、患者さんが押し寄せるという状態でした。
しかし、まだ実務経験のほとんど無かった私は、FMT整体を信頼してきてくださる患者さんの期待に答えることがなかなか出来ませんでした。
「全然変化がないんですけど」
「私の症状のこと、ちゃんと知っていますか?」
ここでは書けないような辛辣な言葉を投げかけられたこともあり、本当に毎日が苦しく、悔し涙を流したこともありました。
しかし、FMT整体の看板を背負っている以上、やるしかありません。
自分に出来ることを毎日精一杯やりつづけた結果、少しずつですが患者さんから信頼していただけるようになりました。
私が単身赴任だと聞いて、お弁当を作ってきてくださったり、お手紙をくださったり、学生さんは大会で優勝して、メダルや表彰状を見せてくれたり、、、
本当に温かい患者さんに囲まれて、施術に集中することが出来るようになっていきました。
私を呼び戻す不思議な力
当初の計画では、3年間、横浜院を切り盛りし、地元の名古屋で開業するという約束をしていました。
しかし、1年半を過ぎた辺りで、私は突然ホームシックになってしまったのです。
整体院の運営も順調でしたし、家族とも定期的に会えていたので特に寂しさも感じていませんでした。
でも、その時は何故か気持ちが続かなくなってしまっていたのです。
そこ本部の方にわがままを言って、横浜院を開業して、ちょうど2年経つ頃に名古屋に帰らせてもらいました。
当時は、なぜ私がホームシックになってしまったのかが、さっぱりわかりませんでした。
しかし、名古屋に帰ってきて、すぐに自分が何かの力で呼び戻されたということを知る出来事が起こりました。
8月に名古屋に戻ってきて、名古屋で整体院を開業して1週間後、父が倒れました。肺がんでした。
検査結果を聞くと、もう手術もできない状態でした。
私が横浜に行っている間、辛い素振りを見せずに、私や私の家族を支えていてくれた父が急にそんな状態になり言葉では表現できないほどショックでした。
私の両親はとっても仲がよく、いつも一緒にいた夫婦なので、母は私なんか比べ物にならないほどの衝撃だったと思います。
母は、父に24時間つきっきりで看病していました。
それでも父のガンは進行し、どんどん痩せていき、70kgあった体重が半分ほどになり、骨と皮だけの状態で立つことや座ることさえ段々とできなくなっていきました。
お医者さんからは、「もう長くないので、覚悟して下さい。」と言われました。
母は泣いていました。私は母の肩を抱くことしか出来ませんでした。
人生で一番苦しい3週間
季節はもう冬になっていました。
年越しまで持つかな…なんて弱気なことを言っていた父ですが、なんとか年を越すことができました。
そして、1月23日の早朝に私の携帯電話がなりました。
私は、すぐにピンときました。
「とうとうこの日が来た」と覚悟をして電話を取りました。
てっきり母親からの電話だと思って出たのですが、電話口の相手は母親のお姉さんでした。
「お母さんが倒れた!!!」
意味がわかりませんでした。
「とにかく、大学病院へすぐ行って!」
意味もわからず、車に乗り込み、病院に向かいました。
病院へ向かう途中、体の震えが止まりませんでした。
「大丈夫、過労で倒れただけだ。」
と自分に言い聞かせて、病院へ着くと意識のない母親がベッドに横たわり、自分の意志とは無関係に身体をくねらせていました。
それを数人の看護師さんを押さえつけていました。
そして、病院の先生から、すぐに説明を受けました。
「くも膜下出血」でした。
状態はかなり危険で「手術が成功するかどうか半々です。最悪の事態も十分あり得ます。しかし、成功したとしても後遺症が残るでしょう。」ということでした。
母は父が病に倒れてからの半年間つきっきりで看病していました。
私もサポートはしましたが、まだ名古屋で整体院を開業したばっかりで、たくさんの業務があり、父のことは母に任せっきりだったのです。
「私がもっと、母親をサポートしなければならなかったんだ」と自分を責めました。
私は名古屋に帰ってきてから、半年で今まで病気一つしなかった両親、どちらともが病気になってしまったのです。
母は緊急手術をうけました。
10時間の大手術でした。
その間、入院している父から何度も連絡があります。
「おい、いつも来る母さんがこないし、連絡もないんだけど、どうなってるんだ?」
私は、父に本当のことを告げることが出来ませんでした。
「ちょっと体調崩して、今日は家で寝てるみたいだよ。」
電話を切ったあと、涙が止まりませんでした。
母親の手術は成功し、それから二週間、集中治療室に入院しました。
その間、左半身はまったく動きません。
私は、施術の休憩時間に母親の元を訪ねて、意識のない母親の動かない手や足を毎日、施術しました。
父からは毎日電話があり、母親のことを聞かれます。
もちろん、父の身の回りの世話をする人もいなくなってしまったので、私がやるしかありません。
もうごまかしきれなくなって、父に本当のことを告げました。
今まで、泣き顔を見せたことのなかった父が号泣していました。
自分自身では、もう立てなくなっているのに、母親に会いに行くと言いました。
しかし、外出許可が降りるような状態ではなく、私の心は締め付けられました。
毎日、母の病院と父の病院を往復しました。
整体院で施術もしていましたので、私の疲労もピークに達していました。
それでも、私はだれも頼ることが出来ませんでした。
なぜなら私は3年間、横浜院を運営する約束で行ったのにもかかわらず、2年で帰ってきてしまったため、残されたメンバーに負担をかける形になってしまっていたのです。
私はFMT整体の仲間たちに対して、負い目を感じていました。
そんな時、FMT整体の中村先生から電話があり「高瀬さんが大変な時はサポートするので、声をかけて下さい。」と言われました。
中村先生は、元々、愛知小牧本院で毎日多くの患者さんの施術をこなしていました。
しかし、私が突然名古屋に戻ることになり、横浜院を担当できる施術家がいなくなったため、愛知小牧本院と横浜院を往復しながら切り盛りするという過酷な状況になってしまいました。
そして、私はその状況を作った張本人なのです。
そんな私に、中村先生は自分自身も大変な状況であるにもかかわらず、私にそんなことを言ってくださったのです。
もちろん中村先生の身体は1つです。
ただでさえ過酷な状況なので、実際にできることはほとんどありません。
それでも、その言葉に私の心は、どれだけ救われたかわかりません。
そして、母親の意識が回復し、集中治療室からリハビリテーション病院に転院する日が2月12日に決まりました。
父にそのことを告げると、父は自分がこの世にいる間に母親に一目会いたいと、か細い声で私に訴えました。
私は、なんとかその思いを叶えてあげたいと思い、医師の先生に転院のお願いにいきました。
初めは無理です。と言っていた先生も父の最後の願いと私の強い意志を聞いて、「病院として、責任は取れません。それでもよければそうして下さい。」と認めてくださいました。
そして父は2月10日に一足先に転院をしました。
介護タクシーでベッドのままの移動です。
もう父は、もうろうとしていて、家族の私でも言葉が聞き取りにくくなっていました。
それでも最後の望みをかけて、転院をしたのです。
そして、母親が転院をする2月12日を迎えました。
朝から、母親の転院の準備をしている時に一本の電話がなりました。
父が転院した病院からでした。
「お父さんが危篤です。すぐに来て下さい。」
私は母親の準備を母親のお姉さんにお願いし、父のもとへ駆けつけました。
父は口を大きく開け、荒い呼吸をしていました。
血圧は50台にさがり、もう話すことも出来ません。
「父さん!頑張れ!もうすぐ母さんがくるよ!」
と伝えると、全く動かなかった父が眼球だけでうなずきました。
しかし、徐々に反応も無くなり、息を引き取りました。
母が病院に到着する2時間前でした。
父の思いを胸に・・・
私は泣きませんでした。
というより、泣いている余裕はありませんでした。
2時間後には、母親が転院してくるのです。
父は病に倒れ、自分自身の苦しさに加えて、母親が大病をするというショックの中、最後の望みをかけて、よく頑張ったと思います。
一目会いたいという願いは叶いませんでしたが、父の思いも背負って母親を看病していこうと、改めて心に誓いました。
転院してきた母は、意識が回復していますが、まだ父が亡くなったことを知りません。
私は、母に父のことを告げられないでいました。
そして、転院して1週間後、奇跡が起きました。
その日も、いつもの様に、母親の動かない左膝を立て施術をしていました。
施術が終わって、足を伸ばそうとすると、いつもより伸ばしづらく、力が入っているように感じました。
(まさか、気のせいだよな・・・)と思いその日は、病院を後にしました。
次の日病院にいくと、看護師さんが私をみるなり興奮気味に
「お母さんの手足が動き出しましたよ!」
慌てて集中治療室に行くと、右手右足と同じように、左手左足を動かしていました。
私は、父親が助けてくれたとしか思えませんでした。
それから、母の過酷なリハビリが始まりました。
あれだけ元気だった母が、歩くのもおぼつかない状態をみると、目に涙がブワーと溜まってきましたが、「がんばれ!がんばれ!」と必死に励ましました。
リハビリのかいもあって、身体は順調に回復していきました。
しかし、やはり後遺症がのこりました。
まずは左半側空間失認といって、左側が見えているんだけど脳が認識しないという状態で、壁や柱にぶつかってしまうのです。
それから、記憶障害も残りました。
発症前の記憶はあるのですが、発症後のことは覚えられなくなりました。
なので、入院中は体を動かすリハビリと小学校の算数のような授業を受ける毎日でした。
次第に元気になっていた母親は、私に父のことを尋ねます。
母の中では、父親は入院している状況で記憶が止まっているからです。
私は「入院しているよ」としか答えられませんでした。
今、リハビリを頑張っている母親に真実を伝えることで、ショックを受け母親が生きる意欲を失ってしまうのでないかという不安がありました。
「早く元気になって、父親に会いに行こう。」
罪悪感を感じながらも、そんな嘘までついてしまいました。
そんなある日、事件が起きました。
母親が病院を抜けだそうとしたのです。
理由は、父の病院に行くためでした。
幸い、看護師さんがすぐに見つけて、連れ戻してくれました。
しかし、これ以上、父のことを黙っておくわけにいかなくなりました。
私は、意を決して、母親に真実を告げました。
母親は号泣しました。
父親に母親の病気のことを告げた時の父の号泣シーンと重なります。
「母さん、父さんの分までしっかり生きよう。」
そう言って、励ますことしか出来ませんでした。
母親は転院してから約半年間、リハビリを続けて退院しました。
私が横浜からもどって約1年間、人生で最も辛く苦しい時期でした。
ホッとしたのもつかの間
そして、ようやく整体に集中できる環境が整った矢先、今度は私にアクシデントが起きました。
患者さんの施術が終わり、起き上がってもらった時に、患者さんがめまいでよろけました。
私はとっさに患者さんを支えて、床に左手をついた時に左手首からビリッ!と何かが裂ける音がしました。
その時は、そんなに痛みもなく大したことないと思っていたのですが、みるみるうちに腫れていき、手が動かせなくなってしまいました。
翌日、病院で検査をすると、左手首の骨折でした。
父や母の時は大変でしたが、気合と根性で施術と看病をなんとかこなしていましたが、手首を骨折してしまっては、どうすることもできません。
私は中村先生に事情を話して、「患者さんをお断りします」と告げました。
しかし中村先生は、全国に15院までになっていたFMT整体の先生に声をかけ、都合のつく先生を見つけてくださったのです。
今日は横浜院の三浦先生、明日は小牧本院の三輪先生、明後日は長野院の田中先生と自分の院の患者さんがいるにもかかわらず、名古屋金山院にきて私が担当している患者さんの施術をしてくれました。
そして、休憩時間には、私の手を施術してくれました。
その甲斐もあり、全治2か月と言われていた左手は、なんと一週間で痛みがなくなり、施術現場に復帰することが出来たのです。
そして、その後も左手は全く問題なく動かすことができ、今現在も名古屋金山院で、施術活動に日夜、取り組ませてもらっています。
いくつのもアクシデントから学んだ「おんおくり」
振り返ってみると、整体師になってから、私や私の周りの人達に様々なトラブルが起きました。
しかし、その度に様々な方に助けていただきました。
特に、FMT整体の仲間には感謝の言葉しかありません。
私は、この人生の中で受けた恩を返したいと常々思ってきました。
借りたものは返さないと気が済まない性格なのです。
しかしある時、こんな話を聞かせてもらいました。
借りた恩は、返すものではありません。今度はあなたが、周りで困っている人に送るものなのです。
それが『おんおくり』です。
そうやって、すべての人々が幸せになっていくのです。
そうか!私が受けた恩は、これから来院される患者さんや今後、整体師になりたいという人達の助けてあげることなんだ。
それが出来る自分であるために、今後も努力をかさね、これから私が出会う人達にも、『おんおくり』を伝えていきたいと思っています。
私は、普通のサラリーマンでした。
どんな症状も1回で治せるような神の手を持っている訳でも、カリスマ整体師でもありません。
でも、普通の人間だからこそ、あなたのお役に立てることがきっとある。
そう思って、今後も整体師として、頑張っていこうと思っています。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
~自己紹介~
高瀬 諭志(たかせ さとし)
1976年生まれ 2児の父(姉妹)
中部大学卒 建築関係で10年働いた後、
一念発起し、整体の道へ飛び込み、現在に至る。
趣味:スポーツ全般(特にフットサル・格闘技)
苦手なもの:タバコ・お酒
お電話ありがとうございます、
みのり整体 名古屋金山院でございます。